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Allgood Story 山中 海輝

Allbirdsではゲストスピーカーのストーリーと参加者同士の対話を通して、
「自身・他者・地球に優しい行動を応援する」トークイベント
Allgood Storyを開催しています。

今回は、プロサーファー兼コンテンツクリエイターの山中海輝さんをお招きました。

「やりたいことを全てやるのが僕の人生です」と語る海輝さんには、どんなに自分を落とすような言葉を周りにかけられても、力強く生き抜いてきた過去がありました。

どの様に二足の草鞋を履き活躍するフィールドを増やしているのか。
それでは、海輝さんのAllgood Storyを覗いてみましょう。

僕がサーファーになった日

僕は大阪生まれで、男3人兄弟の真ん中に生まれました。

名前は「海に輝く」と書いて、海輝。両親がどちらともサーファーだったので、幼い頃から週末は海で過ごすのが当たり前でサーフィン一家で育ちました。

僕がサーファーになった日のことは今でも覚えていて、お父さんのボードに乗せてもらって、後ろから押してもらって立ちました。

波に乗ったら、お父さんに「砂浜を見ろ!」と言われたので言われるがまま見ていたら、お母さんがカメラを構えていて。

その光景が本当に気持ちよくて、23年も前の話ですが、当時「何この感覚?」ってなったのを今でも覚えています。

その時は将来何したいとか無かったので、小さい頃に何かお願いことする時や七夕の短冊には「プロサーファーになる」と書いていました。

サーファーとしての自覚と誓い

小学校2年生の夏休みに一人で、四国までサーフィン合宿に行くことになりました。

朝から晩までサーフィンして、時計もないので、ドアをドドドドンって叩かれて起きるという生活。8歳には怖かったです(笑)

友達もいなかったので、一日中ずっとサーフィンしていて、
お昼ご飯のために定食屋に入っても、注文の仕方が分からず怖くなってお店を出たのも覚えています。

そんなサーフィンに打ち込んでいた幼少期に、サーファーとしての自覚がついた出来事がありました。

当時スポンサーの意味も分からなかったですが、小学4年生の時に自分にスポンサーがつき、京都の大会に出場。

1回戦目を勝ち抜き、次の試合まで横で練習していたら、なんと自分の次の組の出番に。

気がつくと自分は遅刻して失格負け。

お父さんにボードに貼ってあるスポンサーのステッカーを剥がされて、「自覚を持て」 とすごく叱られました。

その時に 『兄弟でサーフィンを続けているのは自分だけで、兄弟は家で待って我慢しているんだ。応援してくれる人がいるんだから、自覚を持ってやろう。』 と僕は誓いました。

初の世界大会。お父さんの一言でプロを決意。

日本代表Jr.になった後に出場した、ペルーでの初めて世界大会の試合。緊張とうまく向き合いながら、結果は100人中の17位。

『自分は一位になる』と本気で思っていたので、本当に悔しかったです。

親の教えで「人前で泣くな。」と言われていましたが、人生で初めて人前で泣いて、肩にかけていた日本の国旗で涙をずっと拭いていたのを覚えています。

試合後、両親が撮影してくれていた試合の様子を見返していたんです。

そしたら動画と共に、両親の「海輝、乗れ!」「逆転しろ!」「今の逆転だよな!?」という声が聞こえてきました。
そして、滅多に泣かないお父さんの泣いている声、さらに「海輝にサーフィンさせてよかったな」と。

お父さんの一言で、今までの辛かった思いも全部報われて、『両親も僕を一人で四国に行かせて辛かっただろうな。よし、プロになろう』と誓いました。

その後全国大会で日本一になり、プロテストも突破。晴れてプロサーファーになりました。

自分にサーフィンがなければ何もない。自分やばいと思った。

20歳に腰の怪我になり、筋挫傷に。毎朝「痛い」から始まり、歩けなかった日々。

『自分はこのまま消えていくサーファーなんやな』と不安な気持ちを抱えていました。実は、プロサーファーになっても、勝ち続けれずに消えていく人が多い世界なんです。

何かを変えたい。

この不安な気持ちを抱えながら、鍼治療のために週末東京に通っていたので、東京で色んな人に会いに行きました。自分はその時「人脈を作ればなんとかなる」と思って、色々な価値観を培い、自分は小さな世界に住んでいたんだなと学びました。

一年後、プロツアーに復活。やってやるという気持ちで、常に上位を守って、日本トップ10位に。

その後21~22歳くらいの時に、カメラを持って旅に出るようになります。最初のカメラは3万円くらいで買って、僕のサーフィンを誰かに撮ってもらうというのをしていました。

ですが、自分で作った動画ををインスタグラムで流していたら、バーの広告動画を作ってほしいと言われ、『これがお金になるんや!』と知ったのが22歳でした。

人生を変えてくれた一枚

このクジラの写真が僕の人生を変えてくれた一枚です。

24歳の時にオーストラリアに一人で行って、ドローンで色んな景色を撮影していたら沖に水飛沫が見えたんです。

「あれ、なんやろう?」と思ってドローンを飛ばせてみたらクジラ!夢中になってクジラを追いかけて撮っていました。

速攻インスタグラムに載せたらすごい反響があって。
ドローンのパイオニアと呼ばれているDJIジャパンさんから、突如DMをもらい「是非会社に来てください」と。

そこでお話しさせてもらって、無償でドローンを借りて、撮影したり、いよいよ「公式のクリエイター」と呼ばれるようになりました。

この年にYahoo Japanの公式クリエイターになり、一気にステップアップして、クリエイター・フォトグラファー・プロサーファーという人生を歩み始めました。

やりたいことは全てやるのが僕の人生です

周りには
「大阪在住ではプロサーファーになれない」
「サーファーしながらクリエイターなんて無理」と言われたけれど、全てやり遂げてきました。

僕がもう一つ大事にしていることは、「知りたいことは全て自分の足で、自分の目で見にいく事」。

他の人の情報を自分の情報としたり、人の言葉を自分の言葉にするのも嫌だし、自分の足で見に行って感じないと分からないことも多いです。

そして、これからの人生は今まで与えてもらった分、今度は自分が与える立場になりたい。

しかし一人の力では限界がある。だからこそAllbirdsと共に新しく大きいことをやっていきたいと思っています。

これからの人生は、「与える人になる」

7・8歳の時からたくさんの方に支えてもらってきました。完全に自分一人で生きていた時間なんて1秒もありません。海に連れて行ってくれる両親や、サーフボードを削ってくれる方、応援してくれていた方がいたからこそ、今の自分がいます。

与えてもらった人生だからこそ、これからは何か人に与えられるような人間になりたいと思っています。

その中で大事にしている事は、自分よがりにならない事です。
○○が正解と相手に突きつけるのではなく、十人十色という言葉にあるように、相手の言葉を聞いて、自分の人生経験からヒントを出してあげる。相手のために思った言葉を選び、伝えるように心がけています。

これから与える人になりたいと思っていた時に、Allbirdsに声をかけて頂いたので、一緒に何か大きい事で人々に影響を与えれるチャンスだと思いました。

Allbirdsの「競合他社を協力者に」という考え方にとても共感しています。ライバルを踏み台にして自分だけが上がるより、みんなで成長できる方が僕は大好きなんです。

僕もAllbirdsにいながら、世界が変わっていくのを見ていきたいし、自分のことだけでなく、他人のこと・地球のことも考えてAllbirdsと共に進んでいきたいと考えています。